2014年1月30日木曜日

2014年1月24日 下流の川で思うこと


広瀬橋たもとの旅立稲荷神社。もともとのケヤキの樹形を教えてくれるような伸びやかな姿だ。
 広瀬橋のたもとから河原に下りて、下流へ歩く。天気予報では、3月下旬並の気温になるとか。歩いているうちに気温が上がってきたのがわかった。
 歩き始めてすぐ左手に、旅立稲荷神社の大ケヤキが迎えてくれるように立っている。いつも上りの新幹線に乗るときは、このケヤキを見るために左側の座席に座る。江戸時代、参勤交代を見送ってきたケヤキだ。広瀬川を渡れば、もうそこは城下の外になる。旅立ちの不安と期待を人はこの木に重ね見たただろう。まるで球体のような見事な枝ぶり。ケヤキって素直に育つとこんな美しいかたちになるんだ、とあらためて思う。根はどのぐらいまで広がっているんだろうか。ぐんぐん地中に根を伸ばし、川の伏流水をたっぷりと吸収し育った木だ。

 旅立稲荷神社の宮司、荒井浩さんのお話をうかがったのは、昨年の6月、暑い日だった。「私が小さいときから、ケヤキは大きかったよ。2本生えて二股のようになっていたけれど、北側の一本は切られたんだ。戦後の水害のときは、広瀬橋の上から宮沢橋が流されるのを見てたよ。屋根の上で人が助けてーといいながら流されていくのも。あの人は助かったんだろうか。堤防の工事が始まったのは昭和28年。前の堤防はいまより150センチぐらい低かった。社務所から水が見えたからね」
 荒井さんは魚捕りはしなかったが、ずいぶん泳いだと話す。対岸へ泳いで渡り、宮沢橋の下で、また少し下流の宮城化学工業の下で、なんと3月から泳ぐこともあったらしい。泳ぎの達者な子には、深いところの方がおもしろいのだろうか。「あそこは深かった」という話が何度も出る。それは、前後して話をうかがった安達勝さんも同じ。いままで、広瀬川の取材でいろいろな方にお会いしたけれど、ここまで具体的な場所を指し示して、「あそこは…」と話す人はいなかったことを考えると、やはり下流は人との接点が多いのだと思う。下流域の人にとっては、流れはすぐそこにあるものなのだろう。

古くからの農家だろうか。大きな畑があった。
 歩いていくと、新しい住宅やマンションの間に、畑を構えた農家とおぼしき屋敷や、昭和30年代に立ったと思われる住宅があらわれる。田畑の中に工場が立地し、そのまわりが宅地化されていったのが、いま工場は撤退し、その跡地はマンションやスーパーになりつつある。ゼラチンの生産で知られる宮城化学工業の跡にはマンションの工事が始まっていた。高い建物が増えて、やがて視界をさえぎるなるのだろうか、と心配になりながら、対岸の八本松マンションを仰ぎみる。巨大な軍艦のような建物が川岸に立つことが決まったとき、反対する人たちはいなかったのだろうか。


対岸に立つ八本松マンション。
宮城化学工業跡地にも大きなビルが建設中だった。
 空間の認識は変わってゆく。かつては大きなマンションが新しい時代のシンボルだったのかもしれない。でもいま、これだけ建物が高層化、密集化する中に暮らしていると、遠くまで見通せる開放感あふれる空間がいかに貴重なものか、下流の河原を歩くとその実感がわき起こる。
 犬を連れてやってきて、誰もいないのを見ると10分ほどリードをはずして遊ばせる人がいた。右から左へ、全力疾走のわんちゃん。飛び跳ねてよろこぶ躍動感がこちらにも伝わってくる。何台か車が止まっていて、近づくとこちらはゲートボールに打ち込む男性グループ。静かな一人の散歩の人がいれば、スロージョギングの人もいる。いろんな過ごし方を、下流の川は受け止めている。

千代大橋のアーチを望む。


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