2012年3月24日土曜日

3月22日 支倉に架かっていた橋の名残は

  26回目の「広瀬川の記憶」。小野幹さんからお借りしたのは、市民会館の上から撮ったと思われる支倉近辺の写真だ。写真左には、赤門自動車学校のコースが写っている。ここには、対岸の支倉通南端に向かって、橋が架かっていた。といっても、元禄時代までのことだけれど。大洪水で橋は流され、架け替えられることはなかったが、対岸の仙台二高の東側には「元支倉」という地名が残る。この橋のことを書こうかと思いながら、強風の中、澱橋近辺を行ったりきたりする。 
支倉の崖の上。東日本大震災の前に崩落したという崖。


 赤門自動車学校側から対岸を望むと、崖が2カ所、大きく崩落していた。この崩落は東日本大震災の前のことらしく、復旧工事着工も早くて、崩落した部分はコンクリートが塗られ、崖の根元の護岸工事が済んでいた。
 澱橋を渡り、新坂を上って知事公館のところから東へ向かい、支倉通に入って、いまさっき赤門自動車学校側から眺めた崖の上に立つ。崖の高さはどのくらいだろう。10メートルぐらいか。江戸時代はここをジグザグに下りる道があり、そこから小さな橋が架かっていたらしい。
 支倉通の南端は支倉丁。この町名は、支倉常長の養父が住んでいたからと伝えられている。崖側に立つ家々は門を閉ざしている印象が強いが、1棟、低層のマンションがあって、1階部分の駐車場から川が望めた。ちょうど蛇行する崖の上だから、見事な眺望が広がる。

いまも湧き続ける井戸水を引いた池。
 向かい側の家の庭に、植木ばさみを手に梅の木を眺める女性がいる。話しかけたら、お庭に通され屋敷奥の井戸まで見せてくださった。「支倉六右衛門のころからの井戸だって、主人はいってたのよ」という井戸は、枠が秋保石だ。近くの高層マンション建設で水位は落ちたそうだが、いまも池やおふろに使っているという。よく澄んだ池の水の中を大小さまざまな金魚が泳いでいて、枯れた色の庭の中で、朱色がひときわ鮮やかに映る。ここに引っ越して2代目なこと。亡くなられたご主人が庭いじりが好きだったこと。たまに帰ってくる息子さんが池の掃除をなさること。しばらく立ち話をする。庭にはは家族の思い出が詰まっているのだ。帰りには梅の小枝をくるりと新聞紙に包み持たせてくださった。


新坂で出会った猫。

0 件のコメント:

コメントを投稿