2011年12月15日木曜日

川で出会った人、聞いた話

「広瀬川の記憶」を書いている西大立目です。
第1回は2004年でしたので、すでにスタートして7年。
正直なところ、広瀬川にはそう深い関心も知識もなかったのに、この連載を続ける中で広瀬川に出会えたのだ、と感じています。
この秋から、(いやもう年末ですね)、ブログのページをいただくことになりました。取材して受け取ったことば、感じたことを中心に書いていきます。
どうぞ、ときどきのぞいてみてください。



冬の藤塚へ、畑を見にいく


 11月30日、どんよりとした冬の気配の立ちこめる空の下を東へ向かって、若林区藤塚の三浦隆雄さんに白菜をいただきに行く。三浦さんとは10月に、藤塚を一人取材していて知り合った。荒れ果てた風景の中で、奥さんと二人、小さな畑を整えて黙々と仕事をする人がいる。それが三浦さんだった。これだけの大地震に襲われ、大津波に流されても、畑に種をまき作物を育てる姿に希望をもらった気がした。
 その三浦さんから電話で、「大きい白菜ができたから、あげっから。畑も見て欲しいんだよね」という。明るい声だった。うかがうと、畑には秋の野菜が豊かに実り、三浦さんは「震災前より害虫が少なくて、かえっていいくらいだよ」と笑顔で、白菜、ブロッコリ、カブを車のトランクにどっさりと積んでくださる。
 畑のわきで1時間ほど話をうかがった。家も農機具も、何もかも流される悲惨な経験をしているのに、おだやかでほがらかで、気持ちが乱れている感じがしない。土に向かっているからなんだろうか。
 その話が興味深かった。三浦さんは昭和9年、藤塚生まれ。家は、名取川寄りのところにあった。

3月11日は孫にせき立てられて、逃げた

「あの日は、中3の孫がたまたま遊びにきてたんだ。畑にいたら、ものすごい揺れでしゃがんでしまった。とんでもない地震だった。家に戻ると塀が倒れていて、これは大変なことになったと思ったよ。そうしたら孫が携帯見てて“じいちゃん、逃げないとだめだ、大津波がくる!早く!”っていう。乗用車を出そうとしたら、地震のせいでシャッターが開かない。孫が、“もう、いい、早く逃げよう!”ってせき立てるんで、この軽トラの荷台に乗っけて、うちのばあちゃん(奥さん)を乗せて、上飯田に逃げたの。孫の家が上飯田なんでね。孫が来てなかったら、逃げなかったと思う。苗が気になってビニールハウスの入り口閉めたりなんだりして、津波に飲まれたんじゃないか。本当に、孫のおかげで命拾いした、っていってるんだ。
 翌朝、ここまで歩いてきて堤防の上から眺めたら、もう何もなかった。いったい藤塚で何人逃げられたか、と何ともいえない気持ちになったね」

避難生活を送り、畑に戻る
「最初は弟のところに仮住まいしてたんだけど、じっとしていらんないんだっちゃ。歩いたりもしてみたんだ。だけど、何だかだめなんだねえ。やっぱり畑やってみっかと思って。土なめてみたら、塩っぱいんだな。でも、俺、パワーシャベル扱えるんで30センチぐらい天地返しして、畝5本起こしてトウモロコシ撒いてみたの。そうしたら1週間で黄色い目が出たんだ。お、これは大丈夫だと思ったね。夏には500本もなって、みんなにくれたよ。
 夏野菜はずいぶんつくったし、いまはネギ、ブロッコリ、キャベツ、白菜、大根、カブ、ほうれん草…いろいろなってる。例年よりいいくらいだね。白菜は、よくヨトウムシにやられて、中がぐちゃぐちゃになるんだけど、今年は虫がいなかった。塩で害虫が死んだんだな」

堤防決壊、大水の苦労
 「いまは名取川に堤防があるけど、俺が子どものころはなかったんだ。そこに見える草の先が、すぐ川だったんだからね。だから、雨が降れば、水がすぐ越えてきた。  
 戦後すぐ、アイオン台風だのキティ台風だの何度も台風がきたけど、昭和25年のときは堤防が欠壊して、田んぼが泥で埋まった。その泥をよける作業が大変で、牛にソリ引かせて運んだんだ。刈ったあとのイネも流されて、子どもたちまで、束を手送りで運んだんだ。このへんは全部水に浸かって、行き来するのに舟を出しくらいだったね。。でも、水増しのあとは土が肥えるものなんだ。収穫はよかったよ。
大倉ダムができてからは、川の水かさが減って、そういう怖さもなくなった」

藤塚はキャベツの産地

「畑で採れた野菜は、河原町や長町の市場に持っていったね。リヤカーに乗せて自転車をこいでいく。朝は3時ごろに出かけるから、帰りは腹へってね、中河原(現・若林7丁目)の梅津屋でコッペパンにあんこだのジャムだの塗ってもらって食べるのが楽しみだったね(笑)。藤塚はキャベツの産地で、大きいキャベツがなったんだ。炭すごにキャベツを入れて出荷したものだったよ」

家には太い栗の柱が3本

「津波で全部流されて、やっぱり家がないのはさびしいね。前の古い家を、俺が昭和46年に立て替えた家だったんだ。前の家は、大きな栗の柱が3本あってね、何でだかわかんないけども、1本は大黒柱、もう1本は「嫁隠し」、残りの1本は「ホイド隠し」っていったんだね(笑)。実際、嫁さんが洗い物してると、隠れるくらい太いんだ」
(*この柱のおもしろい呼び名は、三浦家だけに限りません。かやぶきの大きな農家には、このようによばれる柱があったようです)




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